2015年5月3日日曜日

日本と海外の記事の違いからみる視点の違い

今月は遅れずに更新できそうです!

といっても、テスト勉強から逃げたいだけな気もしますが…苦笑。

とはいえ、昨日研究発表を終えたので、良しとしましょう。


さて、最近Facebookに上がった安倍首相のスピーチについてです。

といっても、スピーチ自体の内容について、ではなく、国別の記事の取りあげ方についてです。


まず、日本、というか日本語記事のThe Huffington Post

スピーチの内容には一切触れておらず、ビデオもありません。

けど、原稿のメモや英語の発音について言及しています。


一方、その元ネタとなった、The Wall Street Journal Japan

英語の記事全文にビデオまであり、発音等については特になにも書いてません。
(流し読みした程度なので、書いているのかもしれないです。)


で、自分はFacebookに上がっていた日本語の記事を先に読みました。

そのときは、「相手の国の言葉を使ってのスピーチがどれだけ大変かわかっていないのか!?」と、原稿のメモを取り上げた他国の記者の視点がおかしいのでは思いました。


けど、元記事を読むと、話が違うことに気づきました。

「原稿の写真」はたしかに取りあげられていたものの、日本側の記者が「原稿のメモ」の部分のみに着目して記事を書いた、という感覚でした。(個人的な感想で読み違えなら、ごめんなさい。)



このように、日本の記事では主に「ふるまい」が、海外では「内容」が取りあげられた印象です。

もちろん、スピーチで棒読み、間違いだらけだったら、ニュースになってもおかしくないですが、ビデオの一部を見た感じでは、批判されるほどのスピーチではなかったのでは、と思います。

なのに、「内容」に関する記述はなく、「ふるまい」にしかフォーカスがいっていない。

そして異なる日本語記事の時事ドットコムでも、「内容」ではなく、米国の議員に「どういう感想を持たれたのか」が書かれていて、スピーチの内容については触れてないです。
(感想の中にスピーチの一部が含まれていても、それはあくまで感想だとみなしてます。)

個人的には、「ニュース記事」ならば、まずどういうスピーチの内容だったのか概要を示して、その後他の人の感想を事実として述べたほうがいいのではないか、と思います。

けど、記事を書く側の身を想えば、今の読者は、内容自体より、簡潔な文章で少し煽る感じの記事のほうがウケるから、と考えたようにも思えます。

実際、こうして少しでも多くの人の注目を浴びる結果となったことは、注目されないよりは良いことだと思います。



で、この記事の違いを比べたら、結局日本人は「どう見える/見られるか」が重要なんだなと。

極論を言えば、このTED Talkみたいに、内容がなくても、

・流暢な英語で、原稿を見ずに、それっぽく話している

と「すごい人」なんだろうなと。
これでうさんくさい商売すれば、ある程度稼いでいけそうですね苦笑



話は変わりますが、自分も昨日のプレゼンで、「自分のプレゼンがどう見えるか」ということを無意識の内に考えてた気がします。

でも、プレゼンを上手くみせるよりも(見せ方ももちろん重要ですが)、自分の意見をしっかりと持っているということが重要だと思いました。

「(自分の意見が)どう見える/見られるか」ということから、「自分の意見をいかにアピールするか」という意識に変えることが日本人にとっての大きな一歩なのかなと思いました。


そのためにも、記事の書き方が少しづつ変わり、Facebookでも議論される意見のベクトルが少しづつ変わっていったらなぁ、と思った今日この頃でした。


相変わらずまとまりのない文章ですが、このへんで。

来月は日本からの更新になりそうです。

2015年4月26日日曜日

こつこつと…

毎月更新の目標が、1ヵ月遅れになってしまった今日この頃です。

タイトルにも書きましたが、最近、こつこつ「やること」の重要性と毎日少しづつでも成長していることに「気付く」重要性を実感しています。


・やることの重要性

やること、特に始めることの重要性は、よく語られていて、本も読んだりしたのですが、実のところ、あまり実感してなかったのかなと。

学部の卒業研究のときとか、「誰かが似たようなことをやっているから」とか「企業ほど上手くできないから」とかよく言って、手を動かすことをためらっていた覚えがあります。

結局、今振り返ってみると、正面向いて研究する気が無かったのかな、と。
または、研究するというベクトルを勘違いしていた気がします。

そんな経験をふまえて、今思うのは、「守・破・離」の感覚がすごく重要だな、ということです。
元の研究室にいた頭の良い人や今の研究室にいる同期は、素でこれができている気がします。

学部次の自分の場合、なんというか、口だけ「破」を目指していた気がします。

頭のいい、優等生と呼ばれた友人は、素直に「守・破・離」を順に守っている人だと思います。
先輩の研究等をしっかりと確認し、できていないところをしっかりと埋めていく感じです。
これは、普通の人にはできないことなので、十分すごい能力だと思います。

しかし、「すごく」頭の良かった先輩は、「破」の部分、つまり自分のアイディアありきで、「守」もきちんとふまえていた気がします。

自分はこの「守」、つまり基礎の部分ができてなかったんだな、と今痛切に感じています苦笑。
そう、自分のアイディアだけ突き通そうとして、これまでの人のアイディアを無視していた感じです。

基礎がなかったため、どうすればいいのかわからなくて迷走し、また違うアイディアを考えては迷走するという繰り返しでした。

今の自分もできているかはわかりませんが、自分の意識の上では、「破」の部分を意識しつつ、「守」の部分を固めている感覚です。
そして、「守」の部分を固めようとしていると、いろいろできていない部分があるんだな、とわかり、自分のアイディアで少しづつ埋めていく、という作業を繰り返しています。


・気付くことの重要性

そして、昔は復習することが大嫌いだったので苦笑、得られた成果のみに執着してた気がします。
なので、「少しづつ」でもアイディアの実現に近づくという感覚の大切さに気づきませんでした。

結局、目に見えて他人から褒められる成果が得られないと納得しない子供の自分がいました。
でも、研究のように、自分のアイディアを実現するのは、他人から褒められるより、むしろ非難され続けたとしても、少しづつ前に進め、結果を示して実現していくしかないんだな、と感じています。

そのため、イチローさんとかの発言にもありますが、自分自身が、日々少しづつ成長している感覚ってすごく重要かな、と。他人は褒めてくれることはないので、自分で褒めてあげる感覚笑。

急にすごいことができるようになることは、まずありえないので、少しづつできるようになった自分に「気付く」ことがやることを継続する上でも重要だな、と思うわけです。


結局、人ができることであっても、自分ができていなければ、できるようになったとはいわないので、

少しづつやるべきことをやり、成長している自分に気づいてあげて、継続していきたい

と思った今日この頃でした。

もうすぐ5月なので、今度はがんばって更新します!

2015年3月9日月曜日

なんとかなる

1月はすごく長く感じられたものの、2月は一瞬で過ぎ去っていった気がします。

というわけで、およそ一ヶ月のペースを守って、無事更新!
といっても、とくに書くことはないんですが苦笑。

今月は、普段以上に、日本人と会うことが多かった月でした。

・元高校の同級生や奨学金の同期が大学見学に来たり、
・米国大学院への留学希望者が来たり、
・Berkeley 対 Stanfordの日本人ソフトボール戦に参加したり、
・無料の英会話教室(ESL)に通い始めたら、そこでも日本人に会ったり、

と振り返ってみると、案外、盛りだくさんな月ですね笑。


そういえば、最近ひさしぶり(ドイツ以来!?)に「ちきりんの日記」を読んでみました。

そしたら、すでに本が何冊も出ていてビックリ!
2011の時点で人気ブロガーだった気もするものの、数年続けるとここまでになるんですね!

それは置いておいて、その中の人気記事で、これとかこれとか、共感できる点が多々あります。
他方、こういう記事(指示語ばかりでごめんなさい…)を読むと、考えさせられることもあるわけです。

今やっていることは十分に楽しいのですが、人生を楽しく生きるとすると、大切な人のいる日本で暮らすほうがいいのかなあ、と思ったり。
はたまた、せっかく米国にいるのに、「こっちの文化に浸らなくていいのか」と、勉強の合間にふと思ったりするわけです。

でも、日本で大学院在学中には、同じ研究室、もしくは近い研究室の人達としか関わりがなくて。
一方、今はMBAの人達とかとソフトボールをしたり、企業から来た人達の話を聞くことができ、確実に視野は広がっている気はします。
また、フリータイムは日本人といることが多いものの、フリータイム以外では、同じ研究室の先輩と自分の研究分野について議論しているし。
こちらの大学院生も、みんながみんな日本の学部生みたいに元気にサークル活動に励んでいるわけはないので苦笑、これでいいのかな、とも思います。


そんなことを考えていると、前回の記事にも書いた気がしますが、自分は(頭の中の)「何でもできている」自分と比較しているのかなぁと。
実際、できることは限られているのに「なんでもできる!」と勘違いして、少ししかできていない自分に、いろいろと悩んでいるのかと(Faceb●●kの弊害ですかね苦笑)。

欲張らないと成長しないかなぁとは思いつつ、「なんでもできることが当たり前」から「できなくて当然、だから(時間をかけてでも)できるようにする」という思考回路の変換をしていこうかと思います。

結局は、やっていることを少しづつ積み上げていけば、なにかしらの「自分」ができあがっていくと思うので、「なりたい自分」に近づけるようにしたいと思います。


最後に、ガンジーによると、

「幸せとは、あなたが考える事と、あなたが言うことと、あなたがすることの調和が取れている状態」

らしいので、することのスピードを考慮していきたいと思います。


(タイトルは、最近言わなくなった自分の昔の口癖を思い出して、のんびりいけよ、という戒めでした笑。)

2015年2月1日日曜日

思考と身体の速度の違い

というわけで、およそ一か月ぶりの更新です!
先輩が使っていた言葉ですが、なかなか「粘られた」1月でした笑。


日本から戻ってきて進級試験の勉強を開始し、中旬に終わりました。

結果は…、まあ…、同期達との差が浮き彫りになる結果でした(泣)。
ただ、自分は日本に戻っていたこともあって、10日間の準備の割にはがんばったのではないかと。

次のときには、しっかりと準備してがんばりたいと思います!


そして、試験の後は、すぐに研究&授業生活が始まりました。

始めのうちは、研究が上手く行かず、というかメンターとの意思疎通がうまくいかず大変でした…。
(専門用語わからないし、英語話すの早いし苦笑。)
しかも、チームにいる他の学生もネイティブなので、なかなか輪に溶け込めず、ラボに行くのが若干億劫になりかけてました…。
でも、言葉が全て通じることはなくとも、その場にいて話を聞く、話をすることが大切だと思い、徐々に自分から話すようにしています。
すると、自分の心のあり方が変わったのか、不思議なことに、少し親しくなった気がしている今日この頃です。いやー、親日家の多いメンバーでよかった!



はてさて、タイトルの話ですね。

最近、鴻上さんの「孤独と不安のレッスン」という本を読みなおしています。
そこででてきて印象的だったのが、「頭と体の速さは違うことを理解する」ということ。

頭ではわかっているつもりでも体がついてこないという経験、みなさんあると思います。

スラダンだと桜木のシュートイメージと実際にビデオに映った姿がかけ離れている感じですね。(読んでない人、分からない例えでごめんなさい。)

上の例とは別の観点から、もう一点、「頭と体の速さは違う」と上述の進級試験の勉強をしていて思ったことがあります。
それは、わかっている(思考としては理解している)けど、問題が解けない(ある意味、身体がついていかない)というパターン。

試験勉強中は、頭では分かっているはずなのに、なんで問題が解けないの!?という感じで、焦りや不安を冗長させていたのかと思います。

そこで、上述の本を読んで納得したのが、「頭と体の速さは違う」んだと。
頭では「自分はできるはず」と思っていても、身体は容易にはついてこないんですよね。
特に、勉強とか、頭で考えるものだと「思考(想像、妄想!?)=身体(実際に考えられること)」と勘違いしやすい気がします。

そして、受験生のときの自分は、「わかっているから、解ける」と思っていたのだと反省しました。
「わかっていなくても解ける(解答を丸暗記する)」のは受験時には有効ですが、理想はやっぱり「わかっていて、解ける(思考と身体が一致している)」状態がベストかと。

だからこそ、「思考と身体の速さは違うことを理解」することで短期間で成果がすぐに出なくて当然と思い、焦ったり不安になって手がつかなくなったり投げ出したりすることなく、着実に努力することが結局は成功への一番の近道なんだと痛感しました。
(痛感したのが、試験には遅すぎて結果に反映されてませんが…泣)

実際、元の研究室の同期とか、今の同期を見ていても、成果を出している人はそれなりの努力をしていて、「才能」という言葉で片付けるのは雑すぎる気がします。
(もし「才能」という言葉を使うなら、「努力する才能が同期達にはある」という感じでしょうか。)
日本では、泥臭く真面目にやることよりも、適当に手を抜きつつ良い成績を取ることがすごいことと思われますが、実際は真面目にできる才能こそほめるべきかと思います。


研究とか授業で、不安になって集中力散漫になったり、手がつかなくなったり投げ出したりすることなく、着実に努力することを心がけていきたいと思います。

というわけで、なにか書き忘れているような気もするけど、今月もこのへんで。
最後に、思考と身体とのギャップを埋める上でどうすればよいか、”リアル”の10巻の白鳥の言葉が個人的には分かりやすかったので、引用して締めたいと思います。


「何もできない存在としての自分

 どうすべきか知ってる

 口を閉じて、ただ脚を…
 じゃねえ、腕を動かせ!

 いつか必ずやってくる…
 「できるようになる」瞬間まで」

2015年1月2日金曜日

新年を迎えて…

新年、明けましておめでとうございます。

米国大学院での半期を終え、現在日本で一息ついているところです。
ええ、実は、日本ではうれしいことに友人と会いまくっていたので、ようやく日本でも一息つけたところで、明日帰国します笑。

にしても、米国に帰国後、すぐテストがあるっていうのに、こんなにのんびりしていていいのかと思いつつ苦笑…。まあ、リフレッシュの時間は必要ですよね!
でも、日本にいるとテレビをのんびり見てしまって、やりたいことあるのに、無駄な時間を過ごしてしまう自分がいたりして、ちょっと嫌気がさしていたり…。

さて、2014年を少し振り返って(←本来、去年やるべき笑)、2015年について考えてみようかと思います。


(2013年の年末~)2014年の新年は、ひたすら修論に追われていた気が…苦笑。
2014年は修論発表から始まり、修士の同期達との欧州への卒業旅行、あと、旅行をリスケジュールさせられての学会発表ですね。

そうそう、それらが一段落したら、今度は大学院の合否が非常に不安になって…苦笑。
留学の同期達がどんどん合格していく中、一人合格が決まらず、他の進路も検討していた時期が懐かしい笑。

3月の中旬には無事合格が決まり、京都行ったりしたなぁ。そして、サマースクールについて先輩方にいろいろアドバイスを聞いたり、ビザを取得したり。
あの時期には、もっといろいろ動けたはずだなぁ、と思う感じ。当時は、Arduinoで音声認識試していたけど、いかんせん、進捗が遅すぎたかと。


7月下旬から渡米。ここからは一瞬だったかなぁ。

8月はサマースクール&メキシコ旅行でいろいろな人と会ったり。
9月から授業が始まり、10月は中間試験に追われ、11月も試験が続き、12月にはもう期末と…。

8、9月のときは、宿題に死にそうになりながらも、週末は日本の友人と遊んだり、ソフトボール行ったりと遊んでいたかなぁ。

でも、9月下旬あたりから、だんだんやばいことに気づき…苦笑。10月の中間からはひたすら勉強の日々でしたね。もうがむしゃらに。今振り返れば、もうちょっと気を抜けたかも、と思いつつ、よくがんばったと思います笑。

こう振り返ってみると、今年は激動(!?)の1年だったなぁ、と。ドイツに行った2011年もいろんな意味で動いていたけど。


今年、2015年はですね、腰を据えられると思うので、一昨年の2013年同様、研究のアウトプットを意識したい一年にしたいと思っています。

去年途中から、研究プロジェクトに参加することができたので、授業は大変だとは思うものの、今年はどんどん研究の時間を割いていきたいなと思う次第です。
今期は授業がやばいと思って、ひたすら、授業に力を入れ続けていたので…。
でも、終わってみれば、なんとかなるかと。もちろん、トップ層ではないので、上に行くにはより一層の工夫は必要ですが。

あとは、試験に合格すること。これができないと、博士課程を続けられないので苦笑。

さあ、今年もがんばりますか!よい年になりますように、いや、なるようにがんばります!!

2014年11月27日木曜日

外から入る日本人と内から入る欧米人


日本の大学院で学んだ経験と、ドイツでのインターン、そして今、米国の大学院で学んでいて、漠然と感じたことをまとめてみたいと思います。

以前、どこかの記事で似たようなことを読んだのですが、「日本人は外から入る」のに対して、「欧米人は内から入る」んですよね。


・日本では…

例えば、ビートたけしの「間抜けの構造」にも体験談が書かれていた覚えがあるのですが、日本では、先生から手取り足取り学ぶことはなく、技を盗むことが求められます。

つまり、まず「形」から入って、物事の「本質」にたどり着き、そこから自分のオリジナリティというか、盗んできた「技」との違いを見出す、「守・破・離」の構造があると思います(言葉の使い方が正しいかはわかりませんが…)。

日本の大学院も同じで、基本的に、「先輩の研究を見て学ぶ」、授業でも、「他の先生方の研究を見て学ぶ」ことが多かった気がします。

そして、そこから自分の興味を持った分野に対して知識を深めていく、というの日本の大学院の形態かと思います。

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脱線しますが、なので、やりたいことが定まらず、流れで日本の大学院に行くと、博士課程の先輩のお手伝いという単なる作業ゲー、知識を深めにくい環境にあるかと思います。
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そのため、知識は「言葉として残す」というより、形のない「技」として受け継いでいくことが日本人の性質のような気がします。


・対して、欧米では…

一方、「研究」そのものの発祥の地でもある欧米(厳密に、発祥というなら欧州だけかもですが…)では、日本と異なり、物事の「本質」から学びます。

物理とか、もうその学問の存在自体が、物事の「本質」から学ぶということの証明ですよね笑。現象(形)から入るなら、「なぜ」球が落下するのか、なんていう興味は持たないと思います。

つまり、まず従来の物事の「本質」から入って、新たな「形」を発見し、そこから新たな「本質」を見出すという構造があるような気がします。

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また脱線しますが、この本質というのを表現するには、他の人が読んでもわかるような言葉で表さなければいけなくて、言葉自体は生き物なので言葉にも限界があります。
(科学分野では、主に使われる「言葉」は、一般的には数学といわれるものになります。このあたりは、機会があれば、また別の記事で書きたいと思います。)
ただ、言葉は生き物なので、新たな言葉が創られたり、発見されたりします。
(日本語でも広辞苑の辞書の言葉が書き換えられるのと同じニュアンスです。「むかつく」とか笑。)
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まだ1年目なので、何か言えた身分ではないですが、米国の大学院も基本的に同じだと思っていて、まず「本質」、つまり今までの知識がどこまであるのかをしっかりと学びます。

現状までの「本質」をしっかりと理解した上で、未だわかっていない新しい「形」(現象)を発見する、というのが欧米の大学院の形態かなぁと思います。

その理由もあって、米国大学院の講義は、自分の過去の記事にも書いたように、しっかり(かなりハード)しているのだと思います。また、教授陣も「普遍的な科目(undergrad.の物理Ⅰ)」とかを教えられることが名誉なこととして捉えていることもあるようです。

そのため、知識を「言葉として受け継いでいく」ことが欧米人の性質のような気がします。


・日本と欧米の違いから…

この違いから、自分の意見としては、

-日本

利点:奇抜な発想が起こり得る(故加藤先生のように、二足歩行ロボットをいきなり創ったりする)

欠点:過去にすでにやられていることだったりして、せっかくの努力が重複してしまう

-欧米

利点:新しい発見を後の世代に引き継ぐことができる(新しい発見=各分野のノーベル賞クラス)

欠点:奇抜な発想が起こりにくい(過去の知識に基づいて考える)

という感じでしょうか。

上の構図を見ると、なんとなく、なぜ日本人がノーベル賞をとりにくいか、またSonyのwalk-manとか日本の発明品が多いかがわかるような気がしませんか!?(もちらん、双方例外はいるので、概論ですが…)

どちらの文化がいいということもなく、どちらの文化もあるからこそ、より発展していくのかなと思う今日この頃です。あとは、個々人がどちらのスタイルを好むかだけですね笑。

個人的には、頭でっかちなタイプなので、欧米型で米国大学院で勉強しているようなニュアンスです。

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またまた脱線しますが、これはかなり宗教観がはいってきてると思います。欧州では、神が世界を創ったから、そこには何かしらの法則がある、というように考えていたとか聞いた覚えもあります。
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あ、そして、なんとなくですが、米国は欧州の利点は維持しつつ、日本の利点も取り組んできているような気がします(特に工学分野)。


・最後に…

なんか思ったことをつらつらと書いていたら長文になってしまったので、この辺で。

単純にまとめるなら、人類の歴史において、日本は「名前を付けて保存」、欧米は「上書き保存」って感じなんですかね笑。

「慣れる」ことの大切さ


またまた、こちらで生活を始めて思ったことを書いておきたいと思います。

ただ、前回は大学の勉強中心(!?)でしたが、ちょっと趣向を変えて、思ったことをまとめてみました。


-電子資料(書籍)について-

こちらでの配布資料がすべてPDFであるのと、iPad miniを持ってきたことから、すべて電子ファイルで資料を読むようにするようにしました。

日本にいるときは、特に学部時代は、講義資料はほとんどプリント(ハードコピー)で行っていたので、結構慣れるのに苦戦しました。

なにがつらいかというと、ハードコピーだと先生の言っていることをそのまま資料に書き込めるのに対し、iPad上だと書き込めないんですよね…(たぶんいいアプリがあるんでしょうが、使ってなかったので)。

なので、プリントに記入する代わりに別途ノートに記述していると、後で見返したときにプリントのどこの場所のメモかがわからないことがあったり、また、一度に全てのスライド(ページ)を見られないときもあったりで、結構大変でした。

けど、今は「紙だと頭に入りやすい」という状態から、「どちらでも頭に入れられる」状態にできたかなぁと思います(だいぶアバウトな感覚ではありますが…)。

無駄な努力だったかなぁ、とも思ったこともありますが苦笑、将来、紙がなくなったときに焦らずに済むと思うと、まあ、やってよかったな、と思うこの頃です。


-英語について-

英語での日常会話だと、

(使用している言語)「英語」 → (頭の中:「英語」→「英語」) → (記憶する言語)「英語」

ということができている(気がする)ので、専門の授業もどうにかなるだろ!と高をくくっていたのですが、全く別物なんだと感じました。つまり、

(使用している言語)「英語」 → (頭の中:「英語」→「日本語」) → (記憶する言語)「日本語」

というプロセスを、専門の話では、未だに踏んでいて、これを日常会話と同じ上のプロセスに戻すことに苦労しました。

というのも、専門に関する知識が日本語で学んでいたため、初めのうちは上手くリンクできていなかったように思えます。日常会話では、上の「英語-英語」プロセスを踏んでいても、専門の勉強の頭の使い方は別だったんだなぁと実感している今日この頃です。


また、専門用語への慣れの少なさも大きく影響していた気がします。
良く知らない単語を見ると、個人的には、それだけで「なんか難しそう…」と思ってしまう感覚のことです笑。

そのため、日本語で習えば、頭にすんなり入るものの、英語を介していることで、理解に時間がかかる、もしくは、より「難しく捉えようとている」ということを、振り返ってみて感じました。

その点、こちらの英語が母国語の学生は、その感覚がない(はずな)ので、仮に同じくらい専門についての知識がある留学生だったとしても、授業の理解度には差が生じるのかな、と思いました。

今更ではありますが、留学をしていた先輩のみなさんが、英語をしっかり勉強してこいとおっしゃってたことを実感しました苦笑。


なお、前述の記事にも書いた通り、授業内容は非常にわかりやすいので、ちゃんと時間を取って復習してみると、「ああ、そういうことだったのか」と毎回のように思う毎日です苦笑。


-結論-

「慣れる」≒「だれる」って感じで、悪い意味で用いられたりもしますが、個人的に今回の経験からは、「慣れ」って大事だなと思いました。